8月9日、10日に、飛騨高山の夏の風物詩「松倉絵馬市」をお手伝いしてきました。全国から絵馬を買い求め、松倉観音をお参りされる方が来られます。僕がお聞きした中で最も遠方だったのは、東は神奈川、西は鹿児島からの方々でした。夜を徹して行われるため、夜中でもお客様が来られます。朝は、4時半頃からご来光を拝む前に来られる方が多くなります。この歳になるまで、松倉絵馬市のことはよく知らなかったのですが、これはただの法要ではないと思い、調べてみました。
松倉絵馬市とは
松倉山にある、松倉観音堂で行われます。松倉観音の法要と同時に行われ、江戸時代後期から続くものです。大正時代までは、9日に村人が観音堂の内外に宿泊し、養蚕(ようさん)の繁栄を祈り、10日に村中の馬を装飾して参詣し、牛馬の無病息災を祈願していました。現代では絵馬で代参するようになっています。紙に描かれた馬は、かつては外でよく働くように玄関から出て行く方向を向いていましたが、現代では福や富が入ってくるように内に向くように貼られます。
下の写真が絵馬市の様子です。紙絵馬には、その場で日付や氏名が書き込まれます。
普門院というお堂の祭壇に絵馬を飾り、僧侶が般若心経と松倉観音の真言「おんあみりーととば ばうんばった そわか」を唱えます。これが夜通し繰り返されます。
私がお手伝いしたのは、参詣客の紙絵馬を祭壇に運んだり、祈祷の受付などのお仕事です。
松倉観音とは
松倉観音は、飛騨一国を統一した松倉城主、三木自綱(みつきよりつな){→姉小路 頼綱(あねがこうじ よりつな)}が兜(かぶと)の中に入れてお守りとしていた「馬頭観世音菩薩(ばとうかんぜおんぼさつ)」を本尊として祀ります。8センチメートルほどの小さな木彫の観音様です。年に一度8月9日〜10日の2日間、もともと安置されていた松倉山の岩屋に戻され、夜を徹して法要が営まれます。
実は、現在この馬頭観音は、姉小路氏を滅ぼした金森長近の菩提所である「素玄寺」に祀られています。敵の城にあったとしても、仏様や菩薩様は敵味方関係なく崇められていたのだと思います。またはそれだけ強力な守り主として恐れられていたのかもしれません。
馬頭観音は、住職が首から下げている入れ物に入れられ、松倉観音堂とお寺の間を大切に移動されます。
松倉城
松倉城は、高山市の西南にある松倉山に、天正7年(1579年)頃に三木自綱(みつきよりつな){→姉小路 頼綱(あねがこうじ よりつな)}によって築かれたとされています。姉小路氏は、織田信長が本能寺の変で討たれた後、飛騨一国を統一するほどに勢力を伸ばしましたが、羽柴秀吉の命を受けて越前より攻めてきた金森長近により滅ぼされます。
松倉観音堂の場所
松倉シンボル広場というところまで、車で上がることができます。駐車場からは下の写真のような山道を10〜15分かけて登ります。
地図データです。
まとめ summary
松倉絵馬市は、素玄寺とその檀家の協力によって毎年行われています。手伝いをする人はかなり高齢のため、夜を徹しての法要は辛いものがあり、体を壊してしまうのではないかと心配になりました。
僕も、父が年齢的にきつくなってきたことから今回初めてお手伝いしてきました。若い人は仕事や家庭があるのであまり手伝えないのでしょう。信仰も変化してきていると思います。
お寺も、食事やお酒をふるまって檀家を接待しなければならないので大変そうです。しかし、本来は信仰する者が集まり、無償の労力を惜しまないことが大切なのではないかと思います。行事を続けるために接待やお礼が必要になるのも寂しいこと。
つくづく考えさせられました。